初めまして、「碧い月」店主のほしゆきえです。

1999年、裏磐梯で開業してから、名前を「ほしゆきえ」と平仮名明記しております。

いまだに、あまり理解されず、郵便などは「星ゆきえ」と記されていることもしばしばです。

いちいち訂正するのも面倒なので、そのままにしておりますが、心の中では、名字だけ漢字にするな!!と憤慨しております。

私が名前を平仮名明記する理由は、それなりにあるのでご理解いただきたいと思う次第です。

さて、私は、高度成長期のまっただ中、1960年代中期にうぶ声をあげました。

地方都市の外れで、野を駆け、山を駆け、川を泳いで育ちました。お下がりと継ぎ当てだらけの服を着て、鍋で豆腐を買いに行き、給料日前にはすいとんを食べた日々。電話は四軒共用、テレビは足付きもちろん白黒でした。砂利道を過ぎ行く車の土煙は、排気ガスと相まって、ちょっとダークな灰色世界。

駄菓子屋のカラフルなお菓子にときめき、インスタント食品の都会性に心奪われ、学校給食に絶望を感じた子ども時代を過ごしたのです。

あの頃のケーキは、誕生日とクリスマスだけの特別な食べ物でした。

いちごを模した赤いゼリー、いつまでも口に残るバタークリーム、パサついたカステラ、お歯黒になるチョコ。

それでも、それが最上の楽しみだったのです。

合成着色料と甘味料、化学調味料の最盛期。

手頃に買えて、手軽に使える化学の味は、庶民の味方。

我家の食卓にも、三角すいの容器に入った魔法の調味料が鎮座しておりました。

しかし、私は、あの味が大の苦手でした。

口に入れた途端、喉の奥が締め付けられるような拒否感に襲われました。

よって、子ども時代の私は、食が細く、やせっぽっちでした。

何しろ、あの粉は、あらゆるものに振りかけられていたのです。

大目に見ても、食にこだわった家庭ではありませんでした。

時代の流れに逆らう事なく、化学が生んだ人工の味で育ってしまった私です。

大病こそしませんでしたが、消化器系のトラブルは日常的でした。

たぶん、体が化学物質を拒否していたのでしょう。

ずさんな食生活の結果です。

しかし、親を恨もうとは思いません。

働き尽くめの生活の中で、多くを求める事は親不孝というモノです。

そんな環境で育った私が、食に興味を見いだしたのは、小学四年生でした。

それから長い時を経て、高校で食の原点を学び、社会へ出て様々な食と出会い、食文化を習得して行ったのです。

命あるものは、生きる為に食べます。

そして、人は、食べる事に楽しみを見いだしました。

多くの人が、食べる事に喜びを感じるのです。

美味しい物を食べて、顔をしかめる人はいません。

むしろ、自然に笑顔になるでしょう。

それを生業に出来るとしたら、そりゃぁ、素晴しい仕事です。

漠然とした想いですが、それが「碧い月」の始まりです。

想いを実現するまでには、相当の時間を要しましたが、それはそれ。

やろうと決めたら、がむしゃらに突き進むエネルギーだけは尽きる事がありませんでした。

夢は、想い描くだけじゃなく、少し先を創造する事。

ばく進し続けた私は、1999年 6月に裏磐梯に「碧い月」をオープンさせました。

しかし、のっぴきならない事情により1年半で閉店。
その後は、各地を転々とし2003年に、ここ三春町の雑木林にたどり着きました。

その年より、朗読というジャンルでの活動もいたしております。

そもそもは、演劇畑にいた経歴があるのですが、ひょんな事からラジオのパーソナリティを仰せつかりました。

そこで、「読み伝える」事の重要性を見いだしました。

活動は地味ですが、地道にやっております。

何事もひとりである事に意味を見いだそうとしておりますので、活動も「ひとり朗読」と呼んでおります。

時には、コラボもいたしますが、店の経営も、朗読も、基本はひとりです。

 

*プロフィール*

ほし ゆきえ(散文・朗読)

福島県郡山市出身

高校卒業後、劇団「樹間舎」にて舞台・テレビ・スチールモデルを経験。

表現の多様性を模索するため、専門職に就いた後故郷へUターン。

1999年裏磐梯にカフェ「碧い月」をオープンさせる。

2003年三春へ移転。同年、FMきたかたのパーソナリティとして番組を制作。

2004年より音楽家 小馬崎達也氏(長野県在住)と、ギター と朗読のDuoを開始する。

アルバム「月夜風」では、作詩も手がけ自身の朗読でレコーディングに参加。

全国伝統工芸展「みしま桐が紡ぐ、音と響」、

心の手紙コンテスト「母から子への手紙」の受賞式で朗読をつとめた。

2006年より《ひとり朗読》へ移行。

宮沢賢治の物語を中心に、独自のスタイルで朗読ライブを開催。

散文執筆、朗読、菓子創りと、ジャンルを超えた表現世界を追求し続けている。