· 

手放す

 今年もよろしくお願いします。

 お正月は、雪があった方がお正月感が増す気がする。元旦は穏やかだったけど、夜半からの強風が雪を連れてきた。暮れに切りそびれた丸太が、雪でこんもりしている。凍結して合体してるから、しばらくは切れないなぁ。

 大晦日、元旦と、知った面子が入れ替わり、立ち替わり。私は、慌ただしく過ごしていた。喪中ではあるけれど、毎度お正月らしいことはしないので、なんら変わりなく過ぎてゆく。新年の挨拶もなんら変わりなく。届いた年賀状にほっこりしている。

 父の介護が始まった時から、見送るまで、私の時計は止まっていた。暑くても、寒くても、季節を感じている実感はなかった。ただただ、一日が過ぎ行くことに感謝しつつ、残された時間が次第に少なくなってゆくことだけに、切なさとやるせなさを感じていた。体はきつかったハズだだけど、辛いとか悲しいとか、やりきれないとかは、少しも感じなかった。娘孝行の父は、私に想いを残させないように、生を全うしてくれた。そして、親と子の間にある大きな愛を教えてくれた。最期の最後でそれを知ることになるのだが、どちらかが元気な間には、そういう目を開くことができないのかもしれない。父を看取ることで、私の中に凝り固まっていた感情が解き放たれた気がしている。

 アドラー心理学に「ギブ&ギブ」というのがある。与えて、与える。

 誰かのために何かをする時、人は無意識の中で「してあげる」という感情になる。「してあげる」つまりは、どこかで見返りを求めているのだ。それは、物質的なものではなく「ありがとう」という一言だったりもするのだが、「ギブ&テイク」であるべきだと思っているのだ。柔らかく言えば「持ちつ持たれつ」である。世のストレスの根源は、この「テイク」されないことへの憤りが大半を占めるのではないかと思う。「持ちつ持たれつ」と言うと聞こえがいいが、要は、やったことへの見返りを求めているに過ぎない。

 認知症を患った父には、記憶の蓄積ができなかった。自ら発する言葉でも、言ったそばから分からなくなる。一つのことに執着すると、延々とそれを繰り返す。それは無意味に繰り返されているようでも、実は、ちゃんと意味があってのことなのだ。父なりの理由があって、同じことを繰り返す。納得いく答えが返ってくるまで、それは、繰り返される。父が欲している答えを導き出すために、根気よく付き合うこともしばしばだった。父の心で、いや、父の脳で起きていることなのだと考えると、父にとっては、すべてが真実なのだから、現実とのギャップには気がつかないのだ。その時空のズレが認知症なのだと思った。

 父を介護していた1年間、私は、父に感謝されたいと思ったことはなかった。常に「ギブ」だったのだ。それまでの私は、いい人ぶって親切心丸出しな偽善者だった。何をしても、自分を犠牲にしているという思いを抱いており、見返りがあって然るべきという想いに満ち溢れていた。だから、思い通りにならないと判ると、怒りにも似た感情を抱いた。ただ、偽善者としては、そこを大っぴらにできないから、ぐっと堪える。すると、それがストレスになる。つまり、イラつくのである。自らの行動は、自ら選んでいるのにもかかわらず、「してやったのに」という感情を抱いていた。ところが、父に対しては、全くそんな感情が湧かなかった。「やりたいから、やる」それだけだったのだ。だから、見返りも求めない。むしろ、感謝していた。それまで積み重ねていた父娘の壁は、認知症状のおかげで取り払われたのだ。重いレンガの壁は、実は、妄想の中で作り上げた幻だったのである。

 私は、すっきりとそれらを手放すことが出来たのだ。それは、父の最期の一息がゆっくりと吐き出された時、一緒に昇天した気がする。

 幸せを願うなら、自らが幸せだと感じなければならない。そのためには、手放すことこそ最大の近道だと思う。何を手放すかは、単純でいて、複雑なんだろうけどね。